話ネタはあるのに、人前が苦手でセミナー開催ができないあなたから「やれる!」を引き出す専門家
人前克服トレーナー 海野美穂です。こんにちは!
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はじめに…
「演劇=エンターテイメントという概念を破り、演劇=日常生活に活かせるものという素晴らしさを伝えたい」
「いつの日か、日本の小・中・高の教育のどこかに【人前で伝える】という科目が入っている世界を創りたい」
が、私の起業した理由です。
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このお仕事をしていると、
「演劇経験もあるんだから、出来るんだよね。」
「最初から、出来たんでしょ?」
「うんのちゃんだからね。」
と言われます。そう感じてもらえるほどに、やっとなってきたんだなぁと、しみじみ。
だってね、私は最初から、人前に立つことができた人間ではなかったから。お勉強が最初からできたわけではないし、メンタルだって弱くて、すぐに泣く、繊細なタイプです。では、どうして私が「人前に立つこと」と「講師」にこだわるのか、3回に分けて、お話をします。
■「嫌だ」が言えない幼稚園児
幼稚園時代、本当に幼稚園に行きたくない時期がありました。登校拒否ならぬ、登園拒否。1級上の先輩が怖くて、「嫌だ」と言えなかったから。私の幼稚園は、2年制。年長さんクラスと年少さんクラスの朝の会のスタート時間は、10分ほど時間差がありました。
年少さんだった私のクラスの方が、先に朝の会が始まります。当時、年長さんのお友達がいたんですが、仲良くなるにつれて、イジメに発展していきました。朝の会の直前になると、必ず何かを盗られて返してもらえない。だから、いつも朝の会に遅刻していた。
すごく嫌だった。でも、怖くて「嫌だ」と言えなかったし、先生にも話せなかったんです。それが嫌で嫌で、幼稚園を休みたいと両親に伝えた時期もありました。だんだんと集団や人の目が苦手になっていきます。
■0点の真相
小学生になった時、算数ができなかった。算数っていう概念が理解できなかった。
「カラスが5羽いました。驚いて3羽逃げて行きました。残り何羽?」
今ならわかるよ!5-3で2羽だよね。でも当時の私は、この文章が物語のように感じていたのです。
「3羽が驚いて逃げたなら、残りの2羽も驚いて逃げました。」
が、私の答えだったから。
2羽って言ってんじゃん!って突っ込みたくなる、今ならね笑。でも、当時の私は、
「なんで?こんなカラスが居たっておかしくないじゃん。」
と思っていたから、当然、算数なんて頭に入ってこなかったんです。
0点でした。文章問題のテスト。
小学校1年生で、0点。
ショックでした。あの時の、テストを返される瞬間は、未だに忘れられません。大きな大きな挫折でした。
ただ、一つ救いだったのは、お母さんが私を責めずに「美穂って面白い事考えてるね。答え方が、わからなかっただけだよね~」って言って、笑ってくれたこと。お母さんがいなかったら、きっと打ちのめされていたと思います。でも、私の中で「勉強」は苦手なものと思うようになりました。
だから、みんなの前で算数の問題を解くとか、発表するとか、本当に苦痛だった。人前で何かするのは、嫌だなぁ…どうせ、出来ないし。と思っていたら、どんどん苦手が増えていきました。そしたら同時に「出来ない自分なんて嫌い」という思いも、加速していったんです。
でも、一個だけ、いつも必ず誉めてもらえることがあるって気が付いたんです。それは、「音読」でした。文章を読むことで、大勢の人に伝わるってすごいと感じたのもこの頃。「ここなら、やれるかも!」という直感を信じ、物語を表現することに、楽しみを見出していくようになりました。
■先生なんて大嫌い。転校初日に○○になった。
私のお父さんは転勤族。何回か、転校を経験しました。その中でも衝撃的だったのは、中学2年生の時。なんと、転校初日で学級委員長になってしまったこと。
もちろん、立候補なんてしていない。「海野さんがいいと思います。」「それいい~賛成~いえ~い」で決まっちゃった。なにそれ?!と思い、その場で抗議しました。でも、先生から出てきた言葉は
「海野ならやれると思うよ」
という言葉。転校初日で、私の何を知って言ってんの?!マジでむかつく!大人って、しょせんこんなもんかよ。メンドクサイから、こうやって理不尽に物事を決めるんだ。未来なんかないな。先生なんて、大嫌い。
最悪なスタートだった。学校に行きたくなくて、悶々としていた。でもそんな時、陸上部の顧問だった先生だけは、違ったんです。
「今、負けて、学校に行かないという選択をするか、なにくそ!と思って、誰も何も言えない環境をつくるか、どっちの方が、海野は納得できる?」
こんな選択肢を投げてくれたんです。後者を選びました。そして、先生はこう伝えてくれました。
「何があっても、どんなに苦しくても、咀嚼して噛み砕き、飲み込みなさい。だから、何苦咀(なにくそ)って言うんだ。」
「何苦咀」
苦しい時の合言葉になりました。クラスメイトに「すごい転校生が来た」と思わせてやる。そう思って、がむしゃらに勉強を頑張った。学級委員長も、やり通した。そして、好きだった音読も、何か私を変えてくれるかもしれないと信じ、続けた。
そして気が付いたら、NHK全国放送コンテストで全国大会に出場していました。もう、私に嫌なことを言う人は、いなくなりました。
人前で何かをすることって、何かを変えるかも。
コミュニケーションって、なんか、すごいかも。
この漠然とした思いは、高校時代に確実なものとなって、その後の人生を決めていく大きなコンパスとなりました。
それでもどこかで、「先生ウザいし、いちいち注意されるのはメンドクサイ。」と思っていた私は、いつも「いい子」で居るように、自分を抑えていたのです。
せっかくできた大きなコンパスの針も、ブレブレになるくらい、苦しい時代に入っていきます。
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